日本はまさに幸福な国である。「明治日本印象記」

右、東アジア美術館(1914年)

著者のアドルフ・フィッシャー(1856~1914)は
オーストリアの東アジア美術史家、東アジア民族研究家、
ケルン市東洋美術館館長で、初めての来日は1892年で、1897年に結婚したフィッシャーは、新婚旅行の目的地としても日本を選んでいます。

明治時代は武士道精神が日本国民の間に行き渡っており、その中で育ってきた国民は、当たり前のことをしていても、当時の世界から見て賞賛されるだけの社会道徳を自然に身につけていたといえます。一部引用してご紹介します。

数世紀にもわたって支配した政権が、突然政治的役割を放棄したこともさることながら、現政権に対抗して旧幕府を守りたてて少しでも戦っていこうと試みる政治勢力が日本に皆無なことはまったく信じ難い。かつての勤皇、佐幕両派は、祖国の繁栄発達ということのみを目標に掲げる一つの党派に融合した。すべての国民がこの理想をあらゆる特権的利益、党派の利益に優先させているわけで、日本はまさに幸福な国である!
すでにこの点で日本は幸福であり、賞賛に値するのだが、さらにこの国は、ヨーロッパのすべての国から、思想の自由があるという点で羨望されている。

数ヶ月前、私は日本人の友人と話し合った際、たとえばオーストリアでは数年来、国と教会が闘争しているが、それは教会が学校教育、すなわち国民教育を独占しようとしているからだと述べた。驚いたその日本人は次のように反論した。「僧侶は学校でなにを求めようとしているのですか?わが国では仏僧であろうと神主であろうと、聖職者が学校に介入することなどけっして許されませんよ。」
あわれなヨーロッパ人である私は、これを聞いて勇気をなくし、おずおずとたずねた。
「それでは宗教教育はどうなっているのですか?」
「宗教ですって?」そこで彼は次のように続けた。西欧式の考え方によれば、日本ではそもそも宗教の講義は行われず、ただたんなる道徳教育があるだけだ。上級学校ではさらに儒教や古代中国の道徳哲学に関する書物の講読があるものの、それだけで十分だというのだ。
「あなたはどう思いますか?」彼はさらにつづけた。
「あなたは日本では、聖職者の介入がないために、ヨーロッパよりも子供たちが両親に対し、より粗暴な、情けない、敬意を欠くような態度をとったり、国民全体が一層、非行、犯罪に走ると思いますか?」

わたしは公平に見て、実際に日本人ほど礼儀正しく、上品な民族はなく、西欧人がしきりにビールや火酒を飲み、トランプ遊びにふけるのにひきかえ、日本人にはいささかも粗暴な趣はなく、自然とすべての美に対する愛を育てていると告白せねばなるまい。

人はだれしもこの幸福な島国で、春、とくに桜の季節を京都や東京で過ごすべきだ。その季節には、思い思いに着飾った人々が、手に手をたずさえ桜花が咲き乱れる上野公園はじめ、すべての桜の名所に出掛けてゆく。彼らはその際、詩作にふけり、自然の美と景観を賛美する。・・略・・

男女の学童は桜花が咲き乱れる場所へ旗を何本も立てた柵を作り、その中で遊戯を楽しんでいる。色とりどりの風船、凧、それに紙製の蝶が空中に飛び交い、その間、目も覚めるような美しい着物を着た幼い子どもたちが、色鮮やかな蝶のように、袂を翻して舞っている。
世界のどの土地で、桜の季節の日本のように、明るく、幸福そうでしかも満ち足りた様子をした民衆を見出すことができようか?
たんに若者ばかりでなく、老人も花見に出掛け、傍らに即席の藁葺小屋ができている桜樹の下にたむろする。
小さな可愛らしい容器に注がれた茶や酒を飲みつつ、花見客は優雅に箸を使い、キラキラ光る漆器の皿にのっている握り飯や菓子をつまむ。清潔、整頓、上品さがいたるところで見受けられる。

優雅さとすぐれたしきたりが調和しているこの有様は、下層の労働者にすら備わっている日本人の美的感覚の発露である。ヨーロッパでは、こうした調和は、ただ最上流階級の人々にしか見出されないであろう。・・・略・・・

桜花が咲き乱れる10日あまりの間、日本ではだれしも数日間はまさにのんびりした気分になる。教会の祝日だからではない。日本人の生活と密着している自然が「いまこそ外出して楽しめ。そして幸福になれ!」と命令するのだ。 日本人にとって自然への愛、生まれながらの美的感覚が生涯を通じて忠実な同伴者となる。