東京品川の「ゼームス坂」豆知識

「世界に生きる日本の心」より:
この坂はもともと「浅間坂(せんげんざか)」と呼ばれてきましたが、英国人で元船長ジョン・M・ジェームスが住むに及んで、「ゼームス坂」と呼ばれるようになりました。

明治20年頃のゼームス邸、跡地は三越のマンションになりました。

戦争中は「敵性語」が追放されたこともありました。それでも「ゼームス坂」だけは消されることなく今もそう呼ばれています。・・
生涯、著書もなかったし、英人・ジェームスも、時代と共に風化しつつあります。彼はどのように日本に貢献したのでしょうか。

ジェームスを語るには、まず天保十年(1839年)、福井県藤島に生まれた関義臣という傑物から入らねばなりません。
関は学問を好み、勤皇運動に挺身し、全国各地に奔走しました。長崎に行った時、海援隊を組織していた坂本龍馬と意気投合しました。彼が意見書を見せると、龍馬は破顔一笑して「北国の奇男子、徹頭徹尾、我と同意見なり。爾後我に一臂の力を添えよ」と言い、海援隊の客員となりました。
関は海外を知らずに開国論を述べることに堪えられず、龍馬のすすめもあって、イギリスへ密航を企てました。そこで知ったのが、海援隊に助力していたカプテン・ジェームスです。
関はジェームスが船長をしている英国船ローナ号に乗り込み、慶応二年七月十日、長崎を出帆しました。

上海から香港を経由、シンガポールに向かって航行中、大暴風雨に遭遇して船は沈没。乗組員は端艇に乗り移ってやっと上陸した所、青竜刀をふりかざした海賊にとり囲まれました。ジェームス等はピストル、関等は日本刀で応戦して血路を開き、九死に一生を得ました。思わぬ遭難のため英国行きはとりやめ、ジェームスは日本に留まることになりました。それ以来、二人は厚い友情に結ばれました。

日本に滞在したジェームスは、明治元年、英国に出張して軍艦購入の道をつけ、その後は艤装、回航、行方不明艦の捜査等を指導し、航海術などを教えました。日本の海運振興に尽くした功績は、はかり知れないものがあります。
その後、横浜鎮守府顧問、海軍省顧問等を歴任し、明治二十三年には政府から終身年金を受け、二十八年、勲二等旭日章を授けられました。

彼が住んでいた浅間坂は急な坂道で、住民たちの交通を不便にしていることを知ると、私財を投じて現在のようなゆるやかな坂に直し、城南小学校の増築には多額の寄付をするなど、品川区にも尽くしました。
「彼には子供がなく、近所に住む日本の子供たちを可愛がりました。当時の子供の小遣いは五厘もあれば多い方でしたが、近所の子供たちを見つけると、二十銭銀貨を取り出し、達者な日本語で、『みんなで分けるんだよ』と、度々くれてやるので、サンタクロースと親しまれていました。ゴマ塩のひげをはやし、見るからに好好爺然としていて、身体は小柄でも、正月には和服を着て、『勲二等ジョン・M・ジェームス』と日本語で書いた大きな名刺を持って、庄屋や町の主だった人達の家々を、年始廻りして歩きました。日本人になりきっていたので、町の多くの人から尊敬を集め、非常に親しまれていました」

彼は生涯関義臣一家と親しく交わり関家の影響もあって、日蓮宗に傾いてゆきました。また、小川泰堂という日蓮宗門の学者からも学び、自宅には純銀製の仏像三体を作って、朝夕礼拝していたといいます。
キリスト教徒の家に生まれた彼が、なぜ父祖以来の信仰を捨てて法華経に帰依したのでしょうか。
彼は生前中、関に対して、上海・香港あたりで布教している宣教師たちを、口を極めて罵っていたといいます。当時、ヨーロッパ諸国がまず宣教師を先頭にたて、「神の意志を宣布する」という使命感のもとに、悪どいやり方で植民地を獲得してゆく様子が堪えられなかったのです。
その典型が阿片戦争やアロー号事件でありましょう。それに対して仏教は、「一切の衆生に仏性を見る」おだやかな信仰です。彼は自ら文章を書いておらず、精神遍歴を資料として紹介できませんが・・・・・