アメリカ夫人が見た日本人の公園でのマナー

1919年(大正八年)6月から1922年(大正十一年)夏まで、大正時代の横浜に住んだアメリカ夫人の著作。セオダテ・ジョフリー著「横浜ものがたり」の一部をご紹介します。

日本人が他人の持ち物を尊重することにかけてアメリカ人は学ぶべきところが多い。
庭園のほぼ中央には寒い風よけの藁葺屋根の東屋があり、その炉端にはいつも火がくべられてベース・ドラムくらいの大きさの鋳物の湯気を出す薬缶が吊るされていた。ベンチが土間に並べられ、火のそばの大きな籠には茶碗がいっぱい入っていた。
 見物人たちは自由にベンチに座って持ってきたピクニック弁当を楽しみ、好きなだけ熱いムギチャを頂戴することができた。・・・

 私が見た一場面を紹介して我々のアメリカの公園の情景と比べていただきたい。
 セントラル・パークやボストン・カマンの月曜の朝の飛び散る新聞紙、アイスクリームのコーン、ピーナッツの皮、ランチ・ボックス、紙ナプキン、「芝生に入るな」の立札。制服のお巡りさん達は一生懸命秩序と外見を保とうとする。私達の”表通り”にある消火栓のふたが必要に迫られて頑丈な鉄鎖でしばりつけられているのを覚えていますか。我々の林の中のピクニック場には宴のあと空き缶やら壊れた壜やらのゴミが散乱している。

 それから日本の三之谷の風景を読んでいただきたい。東屋は大木の繁る険しい崖のふもとにあった。一枚の花崗岩の切石が橋になって、その下を小さなせせらぎが池に流れ込んでいた。池面に広がる象の耳のような睡蓮の葉、麩を追って泳ぎ回る鯉に触れると葉がゆれ動く。
 鮮やかな着物を着た日本の子供達の投げる真っ白な麩をもらいに真っ黒な鯉が集まってくる。歌麿の浮世絵を思い出させる景色である。・・・
 日本は五月である。日本人の一かたまりが下駄音も高くせせらぎにかかる石の上を歩いて東屋に向って行った。それは十五日、労務者の休日であった。父親は老母と妻と四人の子供を公園に散歩に連れて来たのであった。
 子供達は目を丸くして私を見入っていた。オバアサンはさすがに年の功で落ち着いて、「今日は、ごめん下さい」と挨拶をした。彼らは竹の節を利用した柄杓で薬缶からお茶を汲み、取っ手のない湯呑茶碗に移す。オバアサンは母親の背でむずかる子をあやし、塩辛いお煎餅を与えて黙らせた。彼らは下駄を脱いでベンチに座り、お茶を飲みながら回りの景色を賞でていた。父親は煙草入れを取り出して三服ほどふかす。
 子供達はそれぞれ蛇口の水でお茶碗を洗うともとの籠の中に収めた。やがて彼らは鼻緒の中に足指を入れるとみんな揃って帰って行った。

 そう、ここに公園がある。恐らく二百人くらいの日本の家族達が毎日訪れるであろう。しかしここでは紙くずの一片も道端で見かける事はないし花の一枝を折っていく者もいない。東屋は自由にお茶を提供し、籠に盛られた二百個もあるであろう茶碗の中にただ一つも汚れたり、欠けた茶碗は見られない。もとより袂に隠して持ち帰るなどとは思いつくべくもない。   庭師が時々掃除しているのを見かけたことはあるが、東屋の使用人も樹立を巡回する警備員も監視人も居ないのである。日本人は公共の庭園を自分個人の庭のように注意を払う。世界でこれだけの誇りを持った民族に出会うにはかなり広く旅せねばならないであろう。