ポーランド孤児を救え

ネット界では有名なお話だと思いますが、何回読んでも心温まる歴史です。
ご存知の方も多いと思いますが、記録として記事にしておきます。
元ポーランド大使、兵頭長雄氏も「善意の架け橋」と言う本で紹介されていますのでご参考に。

18世紀末、ポーランドは内乱につけこまれて、隣国ロシアの支配を許していました。祖国独立を求め、幾度となくポーランド人は蜂起しましたが、そのたびに失敗し、捕らえられた者やその家族は、政治犯としてシベリアに流され、飢餓と寒さと伝染病と戦いながら厳しい暮らしを強いられていました。百数十年後の第一次大戦後に、ポーランドはようやく独立を果たします。しかし、まもなくロシアでは革命が起こり、革命軍とロシア皇帝派の戦いはやがてシベリア全土を覆いつくし、その混乱は、当時10万人近くいたシベリアのポーランド人たちをも巻き込んでいきました。多くの人達が殺されていく中で親とはぐれた子供たちが数多くシベリアに残されました。ウラジオストック在住のポーランド人有志たちは、せめて子供たちだけでも祖国ポーランドへ帰してやろうと、1919年(大正八年)9月に「ポーランド孤児救済委員会」を結成します。しかし、その後、ポーランドとソ連との戦争が始まり、孤児たちを帰還させることが不可能になります。そこで、救済委員会はヨーロッパ諸国やアメリカに協力を求めますが、莫大な費用が予想される上に、戦略的な価値を見出さなかった欧米諸国は、その依頼に応えてくれませんでした。

 絶望的な状況の中で、救済委員会が最後の望みを託し、向かった先が日本の外務省でした。打診された外務省は、直ちに日本赤十字社に相談を持ちかけます。日赤は、餓死と凍死の危機に瀕した孤児たちに日本で治療を施した後に、ポーランドへ帰還させる方策を決定します。それは救済委員会が外務省を訪れてから、わずか16日目のことでした。

 日本陸軍の支援も得て、765名の孤児たちが日本に招き入れられ、二年間にわたって治療、療育が施されました。
わが国のポーランド孤児たちへの治療と療育は、手厚く行われ、中には、腸チフスの子供を看護し、自らも感染して殉職した看護婦もいたほどでした。

敦賀市提供

「体中皮膚病にかかり白い布に包まれてベッドに横たわる私に、看護婦さんがキスをして微笑んでくれました。私はこのキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出していました」とかつての孤児アントニーナ・リーローさんは、語っています。
孤児たちのことが一般に知られるようになると、国内では治療や理髪、慰安会、救援金、慰問品の寄贈などのボランティアの申し入れが殺到しました。「二ヵ年を過ごした日本は天国のような場所」であった、と孤児たちは語ります。日本を去る日、孤児たちは、見送る医師、看護師、近所の人々の首にしがみつき、泣いて離れようとしませんでした。別れを惜しみながらも、孤児たちは精一杯の感謝の気持ちをこめて波止場に並んで、滞在中に覚えた、「君が代」を歌ったのでした。

 日本船に乗せられアメリカ経由で祖国ポーランドに帰還を果たした孤児たちは、養護施設に保護され、それを祝うために首相や大統領までが駆けつけました。この施設では毎朝、校庭に生徒たちが集まり、日本の国旗を掲げ「君が代」を合唱する決まりがあったといいます。
後に成長した孤児たちは、ポーランドと日本の親睦を主な目的とする「極東青年会」を結成し、組織の活動を通して日本文化のすばらしさをポーランドに紹介していったのでした。

極東青年会

 やがてこの青年会は、ナチスがポーランドに侵攻したときにレジスタンス活動に参加します。その際、わが国は、当時ドイツと三国同盟を結んでいましたが、この青年会のレジスタンス活動を幾度となく援護しました。  それから七十年の歳月が流れ、平成七年(1995)、わが国の阪神地域を大地震が襲いました。このとき、いち早く救援活動をしてくれた国が、ポーランドでした。さらには、震災で孤児になった日本の子供たち三十人を力づけるために、翌八年の夏休みに三週間自国に招き入れ、歓待してくれたのです。そこには、かつてのシベリア孤児だった人達も訪れ、日本の被災孤児たちに、自分たちが日本に親切にしてもらったことを切々と語り、涙を流してこれで恩返しができたと語っていたそうです。